2009/12/4 NOTE
エミリオ  ウォン  キース


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冷たい灰皿

「……雪」
 最初に浮かんだ一言はそれだった。口に出したのはなんとなくだったが―――
「よくわかりますねぇ」
 そう応えが返った方向に、ごろりと回転する。過剰なほど柔らかい羽毛布団を抱きしめながら、エミリオはデスクの端末を叩く男に目をやった。
 東洋人にしては出来すぎに良い体格を、明らかに中華な服に包んでいる。ギャップを楽しんでいるのか知らないが、いっそ安直にスーツの方がマシなのではないかといつも思うのだが。
「雪国出身なもんで」
 はっきりしない視界をぐりぐりとこすりつつ、部屋を見回す。当然のように自分の部屋ではない―――目の前にいる、朝っぱらから仕事に精力的な男の部屋だ。カーテンはまだ寝ていたエミリオに気を遣ってか、わずかにしか開かれていない。細く差し込んできている光からはかるに、まだ朝と呼べる時間だろう。はっきり外が見えるわけでもなかったが、雪が降ったのだと確信したのはそもそも窓を見たからではない。雪の日はわかるのだ。目を開くよりも前に。
 とりあえずベッドから出ようとするもいまいち身体が目覚めておらず、エミリオはずるりとシーツごと床に落っこちた。
「さむーいー」
 床の上で不平を漏らすと、男―――ウォンは、やれやれと肩をすくめてみせた。
「空調は適温ですよ。動いて体温が戻れば問題ないでしょう」
 と言いつつも、席を立ってまでエアコンの設定をいじってくれるのが実に甘い。甘いといっても、こんなつまらないことでこちらの機嫌がとれるなら安いものだと思っているだけだろうが。
 この男相手には、何を言おうが何を要求しようが、絶対にこの薄笑いが崩れることなどない。分厚いスポンジのようなものだ。いくら殴ったところで手ごたえもなければ意味もない。そのかわり、こちらの拳も傷つくことがない。ウォンは彼のたてる騒音を何もかも受け流し、無に帰す。後はなにも、変わらない。
(気楽だ)
 エミリオはひとつ大きくあくびをすると、のそりと立ち上がった。まだ部屋の温度には慣れないが、動けないほどでもない。
 ウォンはもうデスクに戻り、何事もなかったように作業を再開している。
 エミリオがどんな無礼な態度を取ろうが、こうして私生活に立ち入ろうが、ウォンが機嫌を損ねることは無かった。それどころか、軍のオモチャを壊したり、あまつさえ人を殺してすら、ウォンはこちらを責めることなどなかった―――流石に、ちょっと恐ろしい額の損害を出したときは小言をくらったが、だからといってエミリオに対する評価や態度が変わった様子は全く無かった。
 それが気楽だった。心地良いとすら言っていい。周囲にどう思われるかびくびくして暮らしていたあの頃に比べれば、ずっと楽だ。
 しかしだからといっていつまでもシャツ一枚というわけにもいかないので、着替えを探すべくエミリオは視線を巡らせた。
 寝室というにはいささか広い。半開きのクロゼットの扉に軍用品のコートがかけてあるのを見つけ、とりあえずあれを羽織って部屋に戻ればいいやと気軽に足を踏み出しかけたところで―――
「……誰か来てたのか?」
 部屋の中央にあるソファとテーブル。そこに、珍しいものが置かれていた。
「目ざといですねぇ」
 視線だけ振り返ったウォンは、あからさまに苦笑してみせた。
 ひとことでいえば、それは灰皿だった。人を殴り殺すには十分な重さのありそうな、精緻な細工のクリスタル。使われた形跡はなかったが、そもそも滅多に煙草を吸わないウォンの私室には必要ないものである。基本的に棚の奥にしまってあり、時々エミリオが引っ張り出して使う以外に用途はない。
 ウォンが気まぐれを起こして使ったのだとすれば使用の形跡があるはずだし、洗ったのだとすればそのまま棚に片付けるはずだ。綺麗な状態のままテーブルに置かれているということから想像できる状況はひとつしかない。
 煙草を吸うことを予測される人間がこの部屋に招かれ、しかし喫煙は辞退して去ったということだろう。
 そういうことをしそうな人間を脳内でリストアップしてみたが、そもそもウォンの交友関係を知り尽くしているわけでもないため、馬鹿馬鹿しくなって中断した。第一それがわかったところで、どうでもいいことだ。
 そういったこちらの思考が終了するのを待っていたようなタイミングで、
「珍しい来客でしたよ」
 ウォンは面白そうに含み笑った。
 いやらしく好奇心を煽るやり方に眉をひそめつつも、
「誰さ」
 思わず聞き返し、エミリオは灰皿を手に取った。ずしりと重いそれは、ひんやりと手に冷たい冷気を伝えてきた。
「多分、きみが最初に考えて、真っ先に否定した人物で間違いないはずです」
 かけあいを面白がるように、やたら曖昧に答えてくるウォンを睨みつけてから、それでも言われた通りに自分の思考を反芻する。
 最初に思いついた。煙草。冷たい灰皿。喫煙を遠慮する。部屋が寒い。雪―――
「……ふうん」
 流石に雪が降ったことまでを彼のせいにするのはやりすぎと思ったが、概ね連想できたのは一人だけだった。だとすれば本当に珍しいことだが。
「何の用だったのさ」
「スパイと言ってました」
 思わず噴出すと、ウォンも恐らく本人からそう聞かされた時に同じく吹いたのだろう。目元を押さえて笑っている。
「…というあからさまな建前で、昔話をしたいと言ってきましたよ」
「ウォンとぉ〜?」
 心の底から訝しげな視線を向けてやると、ウォンは「心外な」と芝居がかったしぐさで腕を組んでみせた。
「周囲が思っているほど激しい仲違いをしたわけではないです。きみはわかってくれると思ったのに」
「言葉のどこを取っても疑わしい要素しかないんだけど…」
「彼とはちょっと価値観と倫理観と目的がズレてしまっただけの話ですし」
「致命的だと思う」
 いまいちどこまで本気か判断しかね(いつものことだが)、エミリオはかぶりを振った。そして今更ながら気付く。
「てゆーか、なんで起こしてくれなかったんだよ」
「話したかったんですか?」
 まるっきりきょとんと訊き返され、エミリオはぐっと言葉を詰まらせた。
「言われてみると、今更話すようなことは何もないな……」
「でしょう」
 したり顔でうなずくウォンに舌を出すと、エミリオはクロゼットからコートをひったくった。
 そもそも話題の彼は、エミリオが正気だと思っていない筈だ。血に狂い、人を殺すことを楽しみ、無差別な破壊と滅びを撒き散らす今の自分のことを。だからこそ、自分からエミリオに話しかけようとしなかったのだろう。それ以外の理由で彼が会話を拒絶する理由はちょっと思い当たらない。
 しかしエミリオは別に狂ったわけではない。洗脳されてもいない―――はずだ。記憶は一時的に封印されたが、概ね思い出していると思う。彼は自分の意思でここにいるし、自分の意思で行動している。そのことを否定するというのなら、やはり彼と話すことなど何もない。
(……面倒だ)
 良識人と付き合うのは非常に面倒だ。その点ここは非常に心地良い。ノアよりも、かつての友人の傍よりも、ましてや両親の元よりも。
 人に気を遣って自分を偽ることもしなくて良いし、期待されている役割・仕事も明白に存在する。エミリオを気に入ってくれている気のいい年上もいる。後輩はちょっとおつむがアレだが概ね面白い。上司も同じ意味でおつむがアレだが、付き合いも長く気心の知れた相手だ。
 ここは、居心地が良い。
「なあウォン」
 部屋を出る前に一度振り向いてそう声をかけると、再びデスクに向かっていたウォンは律儀に視線をくれた。
「僕はいつまでここに居られる?」
 そんな率直な問いに、ウォンはつまらなそうな顔をしてみせた。含みも何もない、『そんなことか』とでも言いたげに。
 かつてエミリオがまだ幼かった頃は、切実な問いに対しては色々とぼかした言い方をされたものだが、
「きみが必要なくなるまでですよ」
 最近のウォンは、率直だった。
 それが何を意味するのかは曖昧だったが、少なくともウォンにこういう言い方をさせることができるのはごく少数の人間しかいない。そのことに密かに満足すると、エミリオはひらりと手を振って扉を閉めた。

-終-


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